SKY KYOTO

島原について

sky島原から望む島原大門

「島原」の名称は、「六条三筋町」から現在の場所(西新屋敷)への移転騒動が島原の乱の乱れた様子に似ていたためついたと言われています。

新しい土地の周りは壁や堀に囲まれて、出入口として東の島原大門が作られました。
そして島原は江戸元禄期に最も栄え、文化人(与謝蕪村など)のサロン場として賑わいました。
幕末には西郷隆盛、久坂玄瑞や新撰組らも出入りしていたと記録に残っております。
残存していた多くの建物や門も、取り崩しなどで姿を消し、現在は「大門」、「輪違屋」、「角屋」がその面影をとどめているだけです。現在もお茶屋として営業を続けているのは輪違屋のみ。すでに揚屋としての営業は行っていませんが、角屋(一般公開)は建築物としては今も唯一残る揚屋造の遺構です。江戸中期には与謝蕪村らはこの島原で俳諧活動を行っていました。文人や島原の太夫らによる和歌などの文化活動が盛んであったことを示す資料も多く残っています。

「太夫」とはもともと能楽や歌舞伎の舞台で秀でた者に与えられた称号であり、太夫は通称「こったい」と呼ばれ、置屋に所属して揚屋に派遣されていました。かつて正五位の地位をも与えられた最高位の女性であった。かつての島原では毎年10月に吉野太夫、大橋太夫、八千代太夫の追善供養も行われていました。

SKY島原は、この島原の地域をもう一度賑わいのある地域にする様、商店街が行う多くのイベントにも参加しながら、今後の活動を見守っていきたいと思います。